波さがしてっからで5.19〜6.4日の日程で開催されている清方「オーシャン」展。作家活動のほか、「みずいろ絵画教室」なる私画塾( gaccoh.jp/?page_id=7141 )を主宰するなど、京都を中心に幅広い活動を続けている清方(1990〜)氏の、数年ぶりとなる個展。今回は「オーシャン」というタイトルそのままに、青い水彩絵具のみを用いて、(氏が近年しばしば描いている)少年の顔をモティーフとした絵画作品や、その過程で出てきたカンヴァスの端切れを用いたコラージュ作品などが出展されていました namisagashitekkara.com/ocean
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――清方氏の持ち味である、スピード感のあるストロークで一気呵成に描くことで画面を絵画として圧倒的なテンションのもとに成立させる作品が並び、コラージュやライヴペインティング(ギャラリー前面に大きな黒板が立てられ、氏がそこに水をたっぷり含んだ筆で定期的に描く、という)スペース内にはビーチでよく見かけるベンチが置かれるなど、少し早い夏を感じさせる小技がそこここに見られたわけですが、しかしこれらの「夏」や「爽快感」を感じさせる主題系が単なる演出ではなく、氏の絵画の位置づけやありようにおいて本質的なものとなっていることに注目する必要があるでしょう。このような主題系は単に描かれる対象として導入されたのではなく、氏の作品を別の文脈や問題系へと開いてみせるための触媒としても機能している mastodon.xyz/media/l0Znt34y05Y mastodon.xyz/media/3hIlRTjsmlw

清方氏はここ数年、京都市内にあるギャラリー+アーティストコレクティヴであるubefulに所属していますが(この「オーシャン」展もubefulが協力している)、その主宰者であるKim Okko氏は、京都でゼロ年代後半〜2010年代初頭にかけて活動していたアートアクティヴィスト集団0000[オーフォー]のメンバーであった――この事実を外挿したとき、清方氏やこの「オーシャン」展の位置づけは一挙にクリティカル(批評的=危機的)なものになります。0000は活動期間が短く(確か3年強ほど)、あまりに多くのことを未完にして活動を休止したため、現在でもその活動について振り返られる機会はきわめて稀なのですが、当時東京において勃興していた(梅沢和木、藤城嘘、黒瀬陽平各氏をコアメンバーとする)カオス*ラウンジのムーヴメントとかなりの程度連動しながら、京都において若手アーティストをパッケージングして売り出そうとしていたことは、ここで回顧しておく必要があるでしょう

アニメ絵やキャラクターのイラストといったオタク文化のエッセンスを借りつつそれをマッシュアップしたり過剰に消費=創造することで日本・現代・美術界隈において特異な位置を占めているカオス*ラウンジですが、当時の京都において0000諸氏が行なったのは、自分たちが売り出そうとする超若手アーティストをカオス*ラウンジに重ね合わせ、もってオタク文化と京都のアートシーンを自分たちが媒介者となって接続させることでした。ただ、それは肝心の梅沢氏や藤城氏の作品をそれとしてちゃんと紹介する――「破滅ラウンジ」の出張展という形でなら大阪で紹介されたことがあるのですが……――ことをオミットする形でなされた(ために、梅沢氏はともかく、藤城氏の作品は未だに関西ではマトモに展示されてない(はず))ため、彼らの行為は「空想上のカオス*ラウンジ」レベルにとどまってしまったわけですね。その結果、彼らのもとに参集した超若手アーティストたちは、その文脈的な立ち位置がおかしなことになってしまった

――以上のような0000諸氏の戦略に対し、ここで2015年に開催された連続イベント「KYOTO OFF」、とりわけ「プラレシオ」展について回顧しておく必要があります。同展は当時も今もソシャゲやラノベのイラスト界隈で大活躍している西ノ田氏とイセ川ヤスタカ(ななしな)氏の二人展でしたが、そんな二人を展覧会というフォーマットで紹介することによって、同展は結果的に、ここまで述べてきたような、空想上のカオス*ラウンジと0000諸氏をめぐる史的過程を端的に誤訳と剔訣したと見ることができるでしょう(余談になりますが、このとき同展キュレーターと「KYOTO OFF」全体のオーガナイザーを務めたのが、現在謎に売れている批評誌『アーギュメンツ』第2号の編集をしている黒嵜想氏である)。 mastodon.xyz/media/JCy4UCL19hW

――エラい長い寄り道になってしまいましたが、「オーシャン」展が今年のこの時期において開催されているというのは、かようなローカル/トランスローカルな史的過程と、それに対する黒嵜氏の批評的営為によってはじめて可能になった地平に清方氏を改めて位置づけ直すことに等しい。0000諸氏の「誤訳」によってカオス*ラウンジに擬せられた形になってしまった作家(そういう人は清方氏以外にも何人もいる)が、オタク文化やイラストレーションをめぐる文脈を外されたことで、ようやくその作品自体を見る機会に開かれた。それによって清方氏はその真価を正当に問う/問われる場にようやく立ったことになるし、Kim Okko氏は自身の0000時代の落とし前をようやくつけられた。そういう今・ここにおいてこそ可能な展覧会であることは、何度でも強調されるべきでしょう。かような史的な紆余曲折の果てに現出した「夏」と「海」は、かつて松井みどり女史がキューレーターとなって開催された「夏への扉:マイクロポップの時代」展(2007 水戸芸術館)への正当的な応答となっている。新しいSummer of Love。〈了〉

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補足。清方氏はどこかで中原浩大氏の《海の絵》(1987)の自作に対する影響を書き綴ってましたが、「オーシャン」展における、特にカンヴァスの端切れを用いたコラージュ作品には、不定形なイメージの断片が横溢しているという点において、強い類似性を認めることができます。ところで《海の絵》は1980年代の関西における、ニューペインティングブームに影響された様々なムーヴメント――それらは今日「関西ニューウェーブ」と呼ばれ、関西のみならず、この時期の日本・現代・美術について考察する際の特権的な繋留点となっている――の掉尾を飾る作品でもありまして、それを自作とダイレクトに繋ぐことが展覧会という形で結実したのが、この「オーシャン」展であるとするなら、清方氏がここで現代美術史の何を反復しようとしているか、はっきりとした形で見えてくるのではないでしょうか――アートにおける「青春」という主題をめぐる諸問題が。
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